歌舞伎は江戸時代の初頭に出雲の阿国が始めた念仏踊り等の芸能でしたが当時は未だ三味線は使われなかった様です。
次の女歌舞伎の時代に入って舞台で床几に腰掛けて三味線を弾く女性が登場します。当時の屏風絵等に残っています。その様子から当初は音楽家と役者との役割がはっきりと分担されていなかった時代と云われています。
次の若衆歌舞伎の時代を経て今日の歌舞伎の原形である野郎歌舞伎の時代に入り、歌舞伎専門の音楽部門を担当する、三味線弾きと唄うたい、つまり「長唄」が生まれました。
歌舞伎は京から発生しましたが政治の中心が江戸に移り、上方の文化が大きく江戸に流入し、江戸の歌舞伎も生まれました。江戸の歌舞伎音楽は当初は上方の強い影響下にありましたが次第に初代市川団十郎を始めとする荒事の創始等から江戸独特の「江戸長唄」が発展しました。
歌舞伎の世界の中で長唄は二つの大きな仕事を担っています。一つは舞踊の為の演奏です。これは舞台に出て演奏する為、出囃子と呼ばれます。もう一つはお芝居の効果音楽として役者の出入りや、心理描写、情景描写を表す演奏です。これは客席から舞台を見て下手の黒御簾という場所で客席からは隠れて演奏します。下座音楽、又は黒御簾音楽と呼ばれます。
今日伝承している長唄舞踊曲は最も古い物だと享保年間の「七福神」と言われていますが、宝暦年間から「京鹿子娘道成寺」「英執着獅子」「鷺娘」等、長唄の普及曲が揃い始めます。
その後を通じて歌舞伎舞踊曲は作られ続けますが、江戸時代の後期文化文政時代の特に文政になりますと、歌舞伎の舞台から離れてお座敷で長唄の演奏家が演奏するいわゆるお座敷長唄が始まります。これは今日の演奏会に繋がってゆく流れです。お座敷長唄では勿論過去の舞踊曲長唄も演奏されましたが鑑賞の為の長唄も作曲される様になりました。舞踊の形式の制約から解放されて正に音楽鑑賞の為の曲が作られました。その第1号が文政三年、4世杵屋六三郎の「老松」と言われています。
又、同じ時期、大薩摩節と呼ばれる浄瑠璃の一ジャンルが長唄に組み込まれました。唄ものである長唄に語る要素が加わりました。これによってドラマ性の有る長唄が作られ始めました。特に「お能」「能楽」の演目を題材とした長唄が沢山作られ始められました。先行芸能である「お能」を題材として舞踊曲を作る事は長唄の当初からありましたが、この頃から明治にかけては能の詞章や物語の内容そのままを舞踊の為にというフィルターを外して純粋に三味線音楽化する長唄が作られ始めました。「鶴亀」「竹生島」「紀州道成寺」「石橋」「望月」「熊野」など数々有ります。
そして明治、大正、昭和にかけて歌舞伎長唄も熟練の名人達に支えられて磨かれ続けました。それと相まって演奏会長唄でも個性の有る演奏家の作曲、稀音家浄観+吉住慈恭の長唄研精会の新曲、4世杵屋佐吉の曲群、私どもの長唄東音会の創始者、山田抄太郎の新曲など江戸時代の曲にも劣らない名曲が数々生まれました。